2011年06月20日

31、姉に感謝す

 この稿は、私のかすかな記憶と母が話してくれたことに自分の気持ちを交えて書いたものである。
 詳細において事実との正確さの程は母も亡くなり分からないこともあったが、大筋の流れは捉えて書いたつもりである。
 ただ一つ言えることは、引揚げ中には一つも楽しかったこと、嬉しかったことが無かったことは事実である。
 記憶にある大半が恐ろしいこと、悲しいこと、辛かったこと、総てが暗い、いやな思い出ばかりの日々であった。

 今、こうして振り返ってみると、思い出として語ることのない姉の気持ちがよく分かる。
 姉には私よりもっと記憶の鮮明な出来事を知っているだろう。
 その思い出は自分で墓場まで持って行く決心だと、私もあえて聞くことをしなかった。
 辛い思い出、それ以上のものに違いない。

 姉がいなかったら私が現存したかは分からない。
 母と姉がいたから故郷の土を踏めたと思う。
 姉は三つ年上の73歳になる。
 互いに元気で近くにいるが、そう長くはない人生だ。
 なかなか話す機会もないが、私よりも苦労して帰ってきた姉に心から感謝の言葉「本当にありがとうございました。」と申し述べたい気持ちでいっぱいである。

 この稿を書き終える最後の言葉としたい。

posted by むた秀敏後援会 at 07:51| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

30、戦争の罪と責任

 東日本大震災、我が国史上最大の地震と津波による災害は、戦争に匹敵するものである。
 このことは誰も想像できなかったであろう。
 数百年、いや千年に一度の大震災と言われているが、テレビで知る知識であるが特に津波が押し寄せてくるのをリアルタイムに見ていただけに、そのショックは大きく、津波の威力にただただ驚いた。
 ある時は襲いかかるように、また飲み込むように、大きく口を開けたライオンやトラ、そしてクジラのように一口に飲み込んでいく姿に見えた。
 また、その足の速いこと、あっと言う間につぎつぎと行く、ありとあらゆるものをなぎ倒して行く。
 近くで見ていた人も、アーアー、アーアと声を出すことが精いっぱい、家が壊れ流されるのに時間は要らない、本当にあっと言う間の出来事であった。
 テレビを見ても涙するばかりで、現実の人々は声にも涙にもならないのが本当だろうと思った。

 このことと私達引き揚げ者との苦難には違いはあるが、被災者としての立場は似かよっている点が多い。
 今は国も強く大きくなって戦後時とは比べものにならないが、精神的なものを含め特に肉親を失った人々の悲しみ等を十分考慮してほしいと切望するものである。
 私の子供も関東地域にいるが、余震や物資不足、電力不足など被災地域での生活に苦労している。
 一日も早い復旧と復興を望んでやまない。

 第二次世界大戦を振り返るNHKの番組があった、真実の事総ては分からないが、この戦は勝てる戦ではなかった事だけは、はっきりしていたにもかかわらず、その時の流れが戦争に突入せざるをえない状況をつくりあげて行ったように思えた。
 この戦はやるべきものではなかったことは明々白々のものであった。
 そのことは承知のうえに戦争への流れに流されたものではなかったのか、戦争の理屈はどうでもなるが、戦争という大事件について関係者の責任について、もっと真剣に向き合い検証すべきではなかったか。
 何の罪の無い子供が生死をかけて引き揚げて来た、また国内で多くの被災者を出した。
 このことの日本国民に対して、とりわけ子供達に対する大人の責任が明白にされないまま、時は過ぎ去ってきた・・・ように思う。
 戦争と言う恐ろしい化け物に遭った人々は、我われ引き揚げて来た者、また国内で被災した子供達は戦争の真の責任をどこの誰に言えばよかったのか、いま改めて思う。
 あの時は非常事態だったから、戦争だったから、と一言で片付けられる問題ではあるまいとも思う。

 私は戦争の責任と罪は冷静に、そして厳格に対処すべき問題であったと思っている。
 今更ながらと言われるかもしれないが、次に戦争を起こさぬために“今更ながら”である。
 時代も変わり世代も変わる今日、戦争を知らない世代が政権を握り運営する時代になった。
 第二次大戦開戦時のことをよく頭に入れ、よもや、はずみや流れで走った戦争など絶対にあるまいと思うが、年寄りの思い過ごしであればいいがと、また余計なことを言ったような気がする。
 引き揚げの旅路を書いてみて、ふと頭をよぎったからに他ならない。

      だが言っておく。
  “戦争は絶対にやってはいけない”  このことだけは。 

posted by むた秀敏後援会 at 07:25| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月13日

29、寝たり起きたりの日々

 2,3日経つと熱が出て、それからはずーっと微熱が続き寝たり起きたりの日々が2ヶ月以上続いた。
 母も心配して、このように熱が続くなら学校へは行けないかもしれないねと話していた。
 姉もそうだが、母も疲れが取れないでいる、本当に学校へ行けるか心配になる。
 医者は特に悪いところは無いと言う。
 そうこうしている内に熱も次第に下がり平熱になった。
 もう少しで学校だったから、父も母も心配していた。

 元気を取り戻してきて、いよいよ入学に時が来た。
 姉も私も1年遅れの進学で、私が入学姉が1学年下のクラスに入った。
 桜の季節で校庭の花もきれいであったことをよく覚えている。
 校門に一礼して二宮金次郎の銅像に一礼し、そして玄関から校舎へと入って行った。
 教室に入ると私は一番後ろの席だった。

 昔は二人掛けだったので、牛嶋博明君と並んだ。
 今日では二人とも政治家になって共に活動してきたが、その源が1年1組、入学時からの縁である。
 政治家としては党派を異にしていたが、昔からの親友であり立場の違いはそれとして、話し合い、理解し合って今日まで活動してきた。
 私は引退し、彼も勇退した。
 友の有難さを感じる局面が幾度となくあり、特に県議会時代、牛しゃん、牟田ちゃんと呼び合って議会運営の重要な役割を果たしたことも懐かしく思い出される、ともに県議会が円滑に運営される役目であった。

 それもこれも、小学校入学時の同じ机が縁だったのである。
 牛嶋君、牛しゃん、郷土の政治家として共に歩むことができ、本当にありがとう。
 心から感謝とお礼を申し述べたい。

posted by むた秀敏後援会 at 06:11| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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