2011年10月27日

30、あとがき

 我が国には、日本人だけで1億2千万人以上の人がいる。
 それは1億2千万以上の生き方、考え方あると言える。
 そして、それぞれ悲喜交々の人生を送っているのである。

 私は、戦後の引き揚げと事故の二度死線を越える体験をしたが、このような人生を送った方はそう多くはあるまい。
 世の中には運命、宿命的なことがあることも事実だと信ずるのも私一人ではあるまい。
 ケガの時、母から「お前が注意ばしとらんけんたい。」と叱られた。
 言い訳に聞こえるかも知れないが、あの瞬間の出来事は注意不注意の次元のものではなく、避け難い一瞬のことだった。
 引き揚げも事故も天が私に与えた試練であり、これらのことを乗り越えてこそ新しい人生が開けてくるものだと、今思えばこの二つの死線を越えたことによって人生一大転機を迎え、新しい人生のスタートであったと思っている。

 ケガによって境遇も人生観も変わり、これまでの物事、事柄など全てを台風のごとく一掃し新しい人生の流れが始まったと思ったものである。
 この二つの死線を越えた体験を常に忘れることなく、人生を力強く勇猛果敢に生き抜いて、これまでの得難い体験と教訓を生かし、その実現を図っていきたいと決意したものであった。

 この後の政治への道は全て故参議院議員福岡日出麿先生を師匠として進んでいくのであった。
 私にとって福岡先生なくして、今日の私は有り得ないのである。
 多くの指南、指導、激励を頂き心から感謝している。
 また、晋子奥さまに心からなる温かいご交誼に深く感謝している次第である。
 福岡日出麿先生ご夫妻は、自分勝手ながら私の政治の道での両親だと思っている。

 この稿で、引き揚げの部分には正確さを欠いているとも思うが、母から聞いた話を繋いでみた、それなりの思いは入れたつもりである。
 元来文才もない私が随想の形でまとめてみた、ご一読頂きご批評頂ければ幸甚である。

 私の命を救ってくれた田中二郎先生が四十過ぎの若さで他界され、君は他人より十年は早く死ぬぞと言われたが、古希を迎えた。
 幸いにも夫婦共に健康であることを神仏に感謝し、この稿の締めくくりにしたい。

posted by むた秀敏後援会 at 08:50| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月24日

29、寒椿の思い

 いまでも寒い時程、左腕の方が掛布団から手を出して冷たくなって目を覚ますことが度々ある。
 それに手術後、寒い真冬に腕を吊っていたので、そのことが記憶されて、特に冬の寒い2月頃が多く、あの冷たい時期を覚えているのだろう。

 2月と言えば院長自宅裏に寒椿が咲いていた。
 その花びらに雪が積もる、そして解け始めると淡紅色の花びらがその姿を現してくる。
 何処からもなくメジロが飛んで来て、その椿の蜜を舐めている。
 また一羽飛んで来ては他の花びらに止まる。

 もうやがて、春になるな、梅の蕾も膨らみかけていた。
 庭の草花にも、その息吹が見え始めていた。
 寒椿が落ちる頃には退院できるだろうと毎日思っていた。
 あの雪と椿に陽が射すと何とも美しい思いをしたものであった。

 あれから40年が過ぎた。
 時代も世代も変わってきた。
 いまは歴史の流れの中で、まさに混迷の期で当分の間続くであろう。
 しかし、英知を結集して新しい日本の流れを、いまの若者たちが創ってくれるに相違ないと信じている。
 それは我が国の歴史が物語っている。
 成長も低迷も、繁栄も貧困、そして戦争と平和も、改革も革命も、この世にある全ての事はこの地球上の人がやっていることに他ならない。

 自らも反省することばかりの人生のように思うが、生まれてくる時は自分の意志ではないが、人生を渡り老い死に至るのも,即ち生き様は自分の意志で決めることが出来る。
 今の世相は他人を悪く言って己は立派で正しい、また、悪いことは他人に、良いことは自分にと、責任の立場の者に猛省を促したいと自戒も込めて言っておきたい。

 今でも寒椿が庭に咲く、やはり雪景色の時は懐かしく思い出される。
 人の汚れも知らず、咲き続ける、そしてメジロも。
 この季節になると、何となく勇気と気力が湧いてくる。
 それは私が2月2日生まれのことも起因していたのかも。

 我が日本人は世界でも優れた民族である。
 自信と誇りを持って、有色民族である日本人は有色人種の側に軸足を置いて、その人々からも信頼され期待される国家になるべきであり、自負と責任を持って有色人類の真のリーダーとなる道に向かって共に頑張って行くべきと思う。

 完全燃焼して我が人生を全うする思いである。

posted by むた秀敏後援会 at 08:24| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

28、ケガで人生観が変わった

 それまでの私は自分の人生について確固たる生き方を持っていなかった。
 信念の無い付和雷同的なものであった。
 その頃は特に兼業農家の家庭が暮らし向きが良かった。
 その様子を見て一つの田舎の生き方のようになっていたし、親もそれを望んでいたので、そんな生き方をしようと思っていた。

しかし、事故の後の入院生活の中で今後の自分の生活や人生は世の中に役立つ、中でも身障者や弱者の側に立って役立つ仕事をやるべきだ。
 これこそ、この試練を受けた、私の務めであると心底肝に銘じたものであった。
 痛く辛い闘病生活であったが、この時間に今後の生き方、目指す方向をしっかりと心に刻むことができたのであった。

 そして私は福岡日出麿先生の教えに従って生きて行こう、私の人生の師匠にしようと思ったものだった。
 今、若い人達にもよくいうのであるが、「早く人生の師匠を見つけなさい。そしてその師匠の生き方を自分の人生に重ね合わせて行けば、人生に大きな狂いはない。」と話している。
 人間誰しも長短はあるが、師匠を見い出す眼力もその人の才覚であると私は思う。
 そういう意味では私は最高の師匠を持って人生を送ることができたと思っているし、有難い限りである。

 私の話しに、主語がないとか、意味不明の言葉とか、妻も市長時代職員から言われていた。
 「お前たちがちゃんと聞いていないからだ。ちゃんと聞け。」と言ったことがあったが、今思えば失礼したと思っている。
 「おい、アレはどうなったかい?」すると黙っているので、「アノことたい、分からんとか。」と言ってしまい、職員はすみません、どの事ですかと聞くので「分からんとか。アイの事たい。」と言うもので益々職員は分からないようになっていた。

 このことは福岡師匠の譲りであった。
 先生の奥様から「牟田さんは主人の言うことがよく分かるね。私でも分からんことがあるから、あの調子でバカタレが、とよく言われたのよ。」と話されたのを楽しく、懐かしく思い出した。
 私も十分理解できた訳ではないが、いつも聞いていると「牟田、アレはどうなった?」と聞かれると、頭が超高速で回転し数秒で返事をするのである。
 まさに禅問答の様で、頭の活力が高まったと思っている。
 理解できないで叱られたことも再三だった。
 「おい、牟田、ホラ、この前のアレは、アノ人に言ったかい?相手の人はアノコトはドギャン言いよったかい?」
 脳が超高速回転するが、意味が理解できず数十秒時間が経つと「バカが、アノコトたい。」そして、恐る恐る言うと「本当にバカジャなかか。アイの事をアイが何と言うたかたい。」
 禅問答で鍛えられた私にも、珍問答はなかなか理解出来なかったこともあった。

 これも懐かしい思い出となっているし、市の職員にも苦労を掛けたと思っている。
 私は「竹下登元首相は自ら言語明瞭、意味不明とよく言われていたが、私は言語不明瞭、意味不明瞭。」と言い、自分でも納得していた。
 これからも、この話し方は続くものと諦めてほしい。
 身近の女房が言うのだから間違いない。
 これも私の個性の一つと独り善がり・・・・

posted by むた秀敏後援会 at 08:40| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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