2011年10月06日

24、友人が飛んで来た

 友人がわざわざ遠い所まで見舞いに来てくれたと思ったところ、「地元では大事件があって大変な事になりよるけん、今夜若手を中心に集まって話し合いをすることになっている。それにあんたを是非連れて来て。」とのことだった。

 もう転院して2週間近くなっていたので外出の許可も出るだろうとは思ったが、一応外出の許可が出れば電話をすると話し彼は帰った。
 昼食後、外出の話をすると外泊はダメだが外出ならばと許可が出たので、夕刻に迎えに来るように連絡した。

 午後5時頃から鳥栖へと向かい車中で主な内容は聞いた。
 あるお宅へ着くと、もう数人が集まっていた。
 車中話は聞いたが、大変な事になったね、そんな話をしていると若手が集まってきた。
 「おお、牟田君も来てくれた、それは良かった。腕の具合はどうかい?」と皆口をそろえたように言った。
 「お蔭で良い方に向かっている。ただリハビリが痛くてね。」と言うと、一人が「僕も足を折ったが、それは痛いのを通り越して失神するごたるばい。まだ牟田君は頑張らんば。」と言った。

 余り名誉な話ではないので、詳しく話しすることはしない方がよい。
 この頃は、色々と流動的で激しい市政に対立もあった時期であった。
 しかしその時、若手が市政の将来を真剣に考えたことは胸を張って言えると今でも思っている。
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2011年10月03日

23、ビニールの紐細工

 原鶴の病室と言うより、ビニールの紐で松飾りや松の盆栽仕立て、鶴の立ち姿、染め糸での毬づくりなど色々な手芸が病院での流行のようになっていた。

 病室でも足の悪い人が、そのような手芸の材料費だけで作ってくれた。
 手の悪い人はそのような事が出来ないので、食事の配膳をしてやったり、散歩のとき足が悪い人の腕を抱えて歩くなどそれぞれに役割を果たして協力していた。

 雨の降る前になると、病院の前の川にいっぱいホージャ(貝)が上がってくる。
 すると夕立か、次の日が雨になるので天気予報の一つだった。
 また夜になると原鶴温泉の夜景も美しかった。

 話に戻るが、ビニールの材料で立派な風景画を作った人もいた。
 リハビリ段階の人ばかりなので、リハビリ室以外では楽しく過ごしたものだった。
 ただ夜が明けるとリハビリの事を思い気持ちが重くなるが、涙を出しながらも「終了ですよ。」との先生の言葉にホットしたものだった。
その後は温泉での治療をし、注射が済めば殆ど自由な時間だった。
 夕食前に病室全員連れだって、筑後川の堤防を散歩したし、病院の前の川で釣りをしたりして時間を過ごしたものだった。

 少し痛みに慣れたら、また重りの砂袋が一つ増した、痛くて痛くて涙が終わるまで止まらなかった。
 終了のブザーが鳴ったら直ぐに先生を呼ぶが、意地悪みたいに返事はしてもなかなか来ない、「もう早くブザーが鳴りましたよ。」と言うと、「これも、あなたの為だよ。」と最近のテレビコマーシャルで聞いたような言区だった。
 それは本当の事であるに違いない。

 訓練に訓練の日々が続いたが、思うように肘は曲がらずじまいだった。
 ビニール細工は続いて色々な物を作ってもらい、長い間、家に飾っていた。

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