2011年10月17日

27、身障者の国会秘書

 昭和49年6月下旬のこと、その時は参議院選挙の中盤戦の頃だった。

 明日運動から帰ってきて、個人演説会もないから、君に話があるから家に来いとのことだった。
 翌日行くと、選挙情勢の話しをしてから「そこでだが、君は今後、政治家を目指すか、事業でもやるか一晩考えて来い。政治家を目指すなら東京へ第一秘書として連れて行くから。」との話であった。

 両親とも相談したが、お前の考えで決めなさい。
 もう農業をやれる身体ではなくなっていたので、両親も思いがあったのであろう。
 母が、「その身体で大丈夫かい。秘書など手が悪くて出来るのかい。淑子さんも娘が小さくて、お腹にも身籠っているし、東京での初めての生活は大変だろう。よく話し合って決めた方が。」と不安そうな顔つきだったし、父も寂しそうにも思えた。

 しかし、これが人生の転機だ。
 師匠が言ってくれたのだから、これを活かして人生再スタートだと決意し、翌日きっぱりと「秘書として連れて行って下さい。」とお願いすると「よし、それでは上京の準備をしなさい。7月中には上京するように。もう一人は会社の社員で君よりも若い者を付けるから心配しないでよか。」と言った。

 このようにして、その後の政治への道が開けて行くのであった。
 ここで書く本題は、国会議員には参議院議員になった八代英太氏が車椅子で後に国会に来たが、秘書として、手の不自由な障害者の秘書など一人もいなかったと思う。

 或る時、議員会館の女性秘書たちが、「福岡先生のあの秘書さんは、何で先生の鞄を持たずに付いて行くのだろう。」と話題になっていたそうだ。
 私には1回もと言っていい程、鞄を持たせなかった、前に「鞄は持って行きます。」と言うと、「君は手が悪いからいい。」と言って持たせることは無かった。
 自分の会社でケガしたとの思いよりも、弱者のすべての人に配慮の気持ちだったと思っている。
 それは政治行動でよく分かっていた。

 よく怒られていたが、本当は心の優しい、心配り、気配りの方であった。
 私は福岡日出麿先生を人生の師匠と思い生きてきたことを誇りに思っている。
 そして、本当に有難く思っているものである。
posted by むた秀敏後援会 at 08:22| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月13日

26、少年時代の病院通い

 母が「お前は小さい時から胃腸が弱く、常に医者通いしていたのに、よくぞ北朝から引き揚げて生きて帰って来たね。やっぱり先祖や神、仏様のお蔭だったんじゃろうね。」とよく言っていた。

 小学校低学年位まで、久留米の眼科、耳鼻科、久留米医大等々よく行ったものである。
 父の自転車の荷乗せに乗って行き、ついでに当時あった旭屋デパート(後の井筒屋、それもないが)の食堂できまって親子丼だった。
 その他に松源食堂のこれまた親子丼で、医大の食堂でも同じだ。
 父は子煩悩で可愛がってくれたし、私は特に病弱だったので迷惑をかけたものだった。

 扁桃腺炎の手術する時など、入院せずに手術してくれる医者がいるとの事で、自転車で訪ね回って探しに行ったものだった。
 行った日は微熱があるからと次の日に行ったら、患部に消毒薬を塗って、まっすぐメスを刺し込み一瞬のうちに1センチ位の梅の実のようなものを取り出して、先生は「これでよし、あと一方は1週間後にするから。」と言われた。
 麻酔もしなかったので痛くて食べられず2、3日寝込んでいた。

 また言われたとおり1週間後行ったが、なかなか口を開けられない。
「何している。早く開けなさい。」恐る恐る開けるが、「もっと大きく開けて。」と先生の声、大きく口を開けたら前回同様、ブズッと一突き、「はい、終わりました。」と言われたが、喉が破れていないかと思うような気持になった。

 父に帰る途中で話すと「あの先生は、手術は荒いようだが、なかなか上手と評判のようばい。」と言ってくれた。
 確かに今でも再発はしてないし、これまで同じ痛みは無いから評判通りの名医だったと思っている。
 なにしろ父と病院巡りをしたし、病気のデパートみたいな小学生時代であった。
 本当に父にも迷惑の掛け通しだったと反省と感謝をしている。

posted by むた秀敏後援会 at 11:13| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月10日

25、身体障害の認定

 リハビリもひと月を過ぎ、もうこれ以上は難しいと診断された、複雑骨折で肉と血管の部分も思うように接続出来ずにいる状態である。

 そこで原鶴病院も退院して、北九州労災病院にて労働災害年金給付のための障害等級認定を受けることになった。
 診断の結果、6級となって障害年金受給者となったのである。
 それから40年以上もなり、障害者としての暮らしが長い。

 ケガした頃によく見た夢の一つに、左手でお茶碗を持ってサラサラとお茶漬け食べたり、昔行ってた店で「おやじさん、茶碗をもって茶漬けが、ほら、かき込めるようになったよ。」と言っていることや、元来左利きだったので、かつてのように草野球をしたり卓球したりして楽しく遊んだ頃など幾度となく夢を見ては目覚めて現実に戻ったものだった。

 そんな夢も20年余りの間で終わったように思う。
 不自由さがないと言えばウソになるが、障害者の生活が普通になって、よく言えば完全に慣れたのだとも思う。

 前述のようにして結婚した家内も、もう64歳になる。
 歳を重ね、健全な方の数倍は手数をかけるので、すまないとは口では言わないが思っている。
 人によりけりと思うが戦前生まれで、私の父も母に優しい言葉をかけた記憶などない。私も口下手なのかもしれないが、この稿を読むときには、心で感謝していることを書いておく。
 もし、妻の知り合いの方が読まれたら私も気持ちを伝えて下さい。

 こう言う私も古い人間でしょうかね。
 とは、故鶴田浩二の「傷だらけの人生」だったと思うが、
 ♪ 何から何まで 真っ暗闇よ すじの通らぬ ことばかり・・・
  しょせんこの世は 男と女 意地に裂かれる 恋もある 夢に消される意地もある ♪

 島倉千恵子の「人生いろいろ」を聞いていると全くその通りだとも思う。
 昔から、歌は世に連れ、世は歌に連れと言うが、その時々の時世を詠んでいるに違いない。
 
 話が逸れたが、身体障害者福祉法では3級と認定された。
 障害者になって人生の生き方、考え方も変わった。
 その事が、30代からの人生を大きく変えていくのである。

posted by むた秀敏後援会 at 05:49| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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