2011年09月29日

22、リハビリに泣く

 入院した日は夕食を済ませ、同室の人達に挨拶を済ませ特に話すこともなく眠りについた。

 ここは朝6時半には体温を測り、7時半には朝食が配膳され、8時半からリハビリ室に移りそれぞれに治療を始める。

 私は腕をパラフィンに漬け温めてから装置を付けて肘曲げの訓練に入るのだが、その痛さが度を越している。
 このままだと又折れてしまうような気がして療法士を呼ぶが、「涙を出して我慢しているので、まだ大した重りはかけていないから、その痛さを我慢して行かないと機能訓練にはなりませんよ。皆、その痛みを乗り越えているんだから。」と説教されたものの、内心このバカタレがと思ったものだった。

 しかし、他の人も皆顔をしかめて歯を食いしばって我慢している。
 そうか、皆も先ほどの話しのように頑張って汗びっしょりになっている。
 そう思い直すが、やはり痛くてたまらない。
 これを毎日やるのは大変だと思いながら初日は終わった。


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2011年09月26日

21、退院の日

 付き添いのおばちゃんから、朝目覚めると「明日が、いよいよ退院ね。長かったけどあなたの念願だった切断もせず、不自由さは残るけど、これから頑張って生きて行きなさいよ。私もあなたに付き添って気持ちよく看病が出来たよ。」
 そして病室の皆も「いよいよだね、いい思い出になったよ。これからは再び社会人として前向きに生きて行きなさいよ。」とそれぞれ励ましてくれ有難い気持ちでいっぱいだった。

 夕刻には工場長が来てくれ「さあ、明日がいよいよ退院の日になってよかった。わしも本当に心配した。だけど退院の日を迎えるようになったこと、何とも言えない思いと喜びだなぁ。あの診察室にいる時は今だから言えるが、本当にダメかと思ったもんなぁ。わしゃ年寄だから変われるものならと思ったりもした。」としみじみ語ってくれた。
これまで幾度となく見舞いに来てもらい、心込めて頂いたことに深く感銘したものだった。

 ついに退院の日が来た。
 梅も咲き、そよ風に花びらが一つ、二つ、三つと散っている。
 朝早く目覚めたので、朝食前に外へ出てみた、そして病院を一周して病室へ戻ると朝食を皆始めていた。
 「牟田君、嬉しくて眠れんかったのじゃないか」と冷やかされた。
 「今日で、この病院とお別れと思い一周してきました。」と言うと、「そうか、それは良かった。この病院とお別れしてきたんだな。」と年配の人が言ってくれた。

 長い闘病生活だったので病室が一番だが、病院全体にも愛着があった。
 そんなことを話していると、付き添いのおばちゃんが「はよう食べんね。回診があって昼食を済ませて退院になるから、忙しいよ。」と言って、おばちゃんはベッドの下の物を整理し始めていた。
 食事を済ませ、暫くウトウトしていると院長先生の声がした。

 「どうだい。長い間だったが、君もよく頑張ったが俺も会社の人に責任を持つ、君も任せると言ってくれたので本当に責任を感じていた。今日の日を迎えることが出来て心から嬉しく思っている。それでは最後の付け替えをしよう。」と言い手早く処置をしてくれた。

 「これからは吉井町にある原鶴温泉病院へ転院して、リハビリの訓練をして、それがひと月位かな。その結果で北九州の労災病院で労災の障害認定をして障害等級が決まるんだ。これからのリハビリは大変痛いよ。それは我慢して耐えて、少しでも機能が回復するよう努力を続けなさい。一生のことだからな、元気で頑張れよ。」と話してくれた。

 最後の昼食を済ませ、退院の手続きを終え、病室の皆やお世話になった多くの方々にお礼の挨拶、そして院長先生に改めてお礼を言い出したら先に涙が出て止まらなかった。
 先生も目を真っ赤にして「よかった、よかった、本当によかった。」と手を握りしめ、同行していた工場長や父母にも「本当に大変だったが皆さんもよく頑張ってもらった。本当におめでとう。」と言ってもらい、最後に「リハビリはしっかり頑張るんだよ。」とのことだった。

 玄関に着くとスタッフの皆さんが拍手して見送ってくれた。
 奥にいた彼女を先輩が前へ押し出して一層大きく拍手で見送ってくれたことを鮮明に覚えている。

 会社の人二人と三人でと原鶴温泉病院へと転院に向かった。
 車中、工場のこと、工場長のこと、社長はじめ本社幹部が心配し、大きな山を越えたことに皆が喜んでいると話してくれ、早く会社に戻れたらいいねと気遣ってくれた。
 本当に周りの皆に支えられ、この日を迎えることが出来たと素直に感謝の気持ちでいっぱいだった。

 だが車が急停車などすると腕が痛い、そう思っていると吉井町の原鶴温泉手前の病院に着いた。

posted by むた秀敏後援会 at 06:32| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

20、揮毫のお願い

 退院も近づいた頃だった。
 「院長先生、私に掲額する書を頂けませんか」、私はかねてから院長が書を勉強されていることを知っていた。
 「いや、まだ人にあげるようなものは出来ないよ。」とのことだったが、例の押しの一手で、「退院記念として掲額し、その書を見て入院時の事を思い出し、これからの人生力強く生きて行こうと思っていますから、内容は先生の方で宜しくお願いします。」と勝手に結論付けて言った。
 すると、「分かった。君が退院するまでに書くことにしよう。」と言ってくれた。

 1週間も経たないうちに、院長先生がお呼びですよとのことで行ってみると書があり、これを贈ろうと 「照月」 の書を頂いた。
 「私は本当に嬉しかった。暗い夜でも月は照り明かりとなる、そんな人となって社会においても常にこのことを忘れずにいてほしい。ケガで苦しい死線を越えた命を世の為に照らす人に成ってほしい。君なら何か本当に役立つ者になってくれると、ここ数か月間君と共に過ごして心からそう思っている。精進して希望を持って努力しなさい。」と言葉を添えて頂いた、今も当然ながら掲額している。

 院長の言葉通りには必ずしも生きてこなかったことを反省しつつも、今もって有難く思っている、そして毎日額を見るたびに院長の顔を思い浮かべているものである。
 「先生ありがとうございました。」と部屋を出ようとした時、
「ちょっと君に話があるんだ。」
「なんですか?」
「君は高橋君と付き合っているそうだな」ああ、もうバレていたのかと思いながら、
「はい。」と言うと
「結婚を前提に考えているのか?」
「私はそのように思って交際しています。」
「それなら分かった、彼女は少々キツイが性格はいい。そして苦労して育っていて、君のことを理解しているなら私はいいと思うよ。君の一生は、今の君を理解しついてくれる人でなければならない。彼女なら僕は大丈夫と思うよ。君が結婚を考えての交際なら僕も応援するよ。」と言ってくれた。
 内心これは責任重大だと思ったものだった。
 しかし、心から心配や配慮して頂くことを有難く思ったものだった。

 揮毫と言えば、県議会議員時代に当時の井本勇知事にお願いして、「和而不同」の言葉を書いて頂いた。
 この気持ちで政治活動を続けたことだけは胸を張って言えると思っている。


posted by むた秀敏後援会 at 08:45| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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