2011年07月16日

1、大ケガの日

 その頃は帰郷して、ぶらぶらと家の農業を手伝いながら、希望も気力もなく、ただ日々を暮していた。
 父母はサラリーマンをして農業との兼業農家を望んでいた。
 東京から帰って日も浅く、これといった目標もなく過ごす毎日だった。

 その時、先輩が「福岡先生の会社が鳥栖にあるから行かないか、お前が行くなら相談してみるから」と言ってくれた。
 無気力の生活を送っていたので「そうですか、お願いします。」と言ったが、内心はどうせダメだろうと思ったものだった。
 ただ、福岡日出麿先生とはその年、昭和43年7月の参議院議員選挙で杉原荒太(当時現職)先生と厚生省事務次官を勤められた牛丸義留先生の県内保守を二分する激戦があり、僅少さで現職の杉原荒太先生が勝利した戦いであった。
 私も、その時自民党佐賀県連青年部の最も若手で、いわゆる使い走りの駆け出しの時であった。
ポスター貼り、演説会の設営、後片付け、演説会の前座すなわち聴衆が数人位の時に演説を始めたものであった。
 その時は、そのような選挙を覗き見した程度である。

 話を戻そう。
 このようなこともあって就職の話は福岡先生や会社幹部の理解も得て採用されることになった。
 仕事は単純な事務作業で、仕事に期待を持てるものでもなかったが、両親の希望のように農業を手伝って勤めを続けていた。
 そして2ヶ月余り経った10月初めの雨の降る日に突然の悪夢が襲った。

 その日の午後、雨も上がり機械の点検をするとのことで、コンベアーを動かし点検作業に同行した。
 一通りの点検を終えて一人は先に降りて行った、高い場所だったので私は稼働しているコンベアー等を再度見て廻った。
 その時である、雨で濡れていたので足を滑らした瞬間、左腕を回転しているコンベアーに倒れると同時に手をついて、プーリーという回転している装置に左腕が巻き込まれ、数か所の骨折と切断寸前のケガをしたのであった。

 大ケガであったので、事故の瞬間は痺れであまり痛みは感じなかったが、出血がひどく事務所の女性が私の姿を見て貧血をおこし倒れたと後に聞いた。
 それ程のケガであったが、車で病院に送ってもらう途中だから数分だったと思うが、左手は切断した、これからは右手だけで生きていかなければならない、勉強して司法書士になり、更に努力し続けて弁護士でも目指そうと思っていた。
 数分の中で生き抜く思いは強かったのである。

 「病院に着いたよ」の声に、降りようとするが身体に力が入らない、身体を抱えてもらい院内に行くが靴も脱げない、出血多量で意識系統がおかしくなってきた。
 なんだか、ぼんやり、目もかすみがちになっていた。
 その時、看護婦さんが「そのままでいいですよ。早く手術室へ行って下さい。」と言ってくれたので、会社の者に抱えられながら歩いて手術室に行き手術台に寝た時、左腕はぶらっと下がったままで力が入らず、左腕は切れてしまっていると思った。

 一緒に来てくれた看護婦さんが「これは大ケガのようですね。直ぐに先生がお見えになりますから。」と言って出て行った。
 会社の者と待っているが、先生がなかなか来ない、出血は続いているし、気を失ってはいないが目がいささかぼやけてきたように思える。
 気を失ってはいけないと自分に言い聞かせる。
 先生はまだだろうか?と会社の者に問いかける。
 時間はそう経っていないが、一分一秒が長く感じられる。
 この間に思うことは悪いことばかり、待つ時間が長く感じられてもう少し続けば俺は死んでしまうと、本当にそう思っていた。

 バタ、バタ、バタと早足の音がした、院長がみえたのであった。
 そして開口一番「これは大ケガだ、何でケガしたのかい」と会社の者に話しかけていた。
 私の顔を見るなり「大ケガだよ、全力を尽くすが・・・」と言っただけだった。
 そしてタバコを一本吸い終わると「さあ、手術をしよう」と手術が始まった。

 先ず、洋服やズボンを切って、左腕の服を切った時「これは酷い。よく意識を失わなかったな、君は相当意志の強い人だな。」と言いながら手術は進んだが、麻酔ができなくて、痛み止め注射を打ちながらだったから、痛くて痛くてどうしようもなかったが「我慢しろ、俺も頑張ってるからな」と言って3時間近くの手術は終わった。
 意識があったから痛さはあったが、そのことが後に生死の分かれ目を越えたと思ったものである。
 「先生、ありがとうございました。」院長はうなずいて手術室を出て行った。
 これまた後の話しになるが、その時院長は死ぬかもしれないと言っていたとのことだった。

 手術室で暫く時を過ごし、ナースステーションの傍にある観察室へと移された。
 父と母は会社からの連絡で手術の時から既に駆けつけてくれていた。
 母が「どうしよったとね」と言ってその後は言葉にならなかった、私も母の手を握り返すのがやっとであった。
 父は気丈にしていたが、目にはいっぱいの涙であった。無言だったが、視線で精一杯心配そうな気持を強く感じた。
 そして父が「疲れたろ、痛かったろう、目をつぶりなさい。」と声をかけてくれた。

 会社の人たちも帰って行った。
 その夜から母は長く付き添いをすることになるのである。

posted by むた秀敏後援会 at 08:05| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

友人との会食

 懐かしい進出企業の社長と会食した。
 「牟田さん、今日、社長職を完全に息子に譲って、社長印など全て手渡してきました。」とサバサバした表情で話された。
 今後は相談役として見守っていく思いを語られた。

 起業し、創業者として幾多の苦難を乗り越え、事業の発展を図ってきた苦労話には一つ一つ感心をし、感銘を受けた。

 私より2つ下の68歳だから、まだまだ現役も十分ではと話したが、
 本人は「いや時代も変わり、見方、考え方も変わってきた今は、もう若い者の時代だと思って譲った」と余力を残しての話は印象的だった。

 元来、活力気力溢れる人であるから、またきっと新しく行動されるのではと思った。
 まずは、これまでのご苦労に敬意を表し、ご夫妻でゆっくりとお過ごしの程お祈りするのみである。
posted by むた秀敏後援会 at 08:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月04日

妻の誕生日

 もう、連れ添って40年以上になる。

 よく我慢してくれたと思う、64歳を近く迎えるが本当にそう思っている。
 前にも書いたが、自分の思うこと、やりたいことをすべて断ち切って政治の道をひたすらに走り続けた私を助けてくれた。

 どこの政治家の家庭もそうだと思う。
 現役の時は、それぞれの立場で精一杯取り組んでいる時、つい自分勝手な考えを押し付けていた。
 そんなことも女房から見れば山ほど言いたい事があるのではないか。
 引退して自由の身となって静かに思うのである。

 お互いに、いつまでも長生きする訳でもなく、これからの人生を共に楽しく生きていきたいものだ。
 誕生日には、心を込めて祝ってやりたいと思っているが、
 ハテ、どうなることやら ・・・・
 
    このページをもってお祝いとするか。

posted by むた秀敏後援会 at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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