2011年07月22日

ひそんでいる幸せ

 幸せになりたい、愛していると思っていても「口にしないと」、分からないじゃない。
 時代も変わって、今ではこのような話をよく聞く。

 それも間違いではあるまい、しかし私たちの世代くらいまでは、文章も行間にある意味を、言わずもがな、言外の意味を等々と言われ、もっと文章をよく読みなさいとも言われた。
 日本人の良さであると私は思う。

 よく“間”の取り方が大切だと話す時などよく言われ、話下手の私など皆さんから指摘され、口に入れて練習するマウス何とかと言う器具を買って来てくれたが、一向に向上しなかった。

 話を戻すが、ひそんでいる幸せとは金子みすずの作品にも出てくる言葉の一つでもあるが、私はなかなかいい文章だと思っていた。
 今の時代や世代の若い人にはどうかとも思うが、人の生き方に“ひそんでいる幸せ”を感じて生きていくことも大事な幸せであるまいか。
posted by むた秀敏後援会 at 11:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月20日

なでしこ、世界に開花

 7月18日早朝から女子ワールドカップをテレビ観戦した。
 アメリカ戦だから負けて元々だと気楽に観ていた。
 ところが時間が経つにつれ力が入ってきて、勝てるかもへ、そして、きっと勝てると思いながら観ていた。

 延長戦が終わりPK戦になる時の選手の顔がリラックスしていた。
 逆にアメリカの選手には相当のプレッシャーが感じられた。
 結果はその通り、私も観ている間嬉しくて涙が止まらなかった。

 本当におめでとう、そしてお疲れ様でしたと心からのお祝い、ねぎらいを言いたい。
 その日は、NHKの朝ドラ「おひさん」でも涙が出たので、もう当分嬉し泣きはしなくてよいみたい。

 今回はバスタオルを用意しなかったので、ティッシュを何十枚使ってしまった。
 また妻から言われるとの思いで、屑箱に入れたのだが見つかって
 「これ何・・・」
 これ以上は書きません。後はご想像に・・・

 本当にすばらしい試合だった。
posted by むた秀敏後援会 at 08:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

2、観察室でのこと

 観察室に移った、観察室とは生死というより死の確率の高い患者が入り、快方に向かって出ていく人は少なかったようだ。
 入室して、その明け方に隣の患者が亡くなり、身内の人が、名前を呼んだり泣いているのが続き、私も痛さとともに眠れなかった。
 その夜、母も一睡もしなかったようだ。
 一日おいて、入室した患者も3日目の夜中に亡くなった。
 そんな中で、話には聞いたことがあったが、お花畑を歩いて外れの方に行く夢をよく見た。
 回復し元気が戻るまで話さなかったが、少なくとも5回以上は見たと思う。その時、花畑を渡り終える前に目が覚めるのであった。
 それはいつもそうであった。 そのことが生きてこられた運命であったと思っている。
 ウソと言う人もあろうが、それは本当の事で数回以上の体験をしたものである。

 また夜は死の恐怖で眠れない、眠るとそのまま死んでしまう気になる。恐ろしくてたまらない。
 瞼が閉じてくる。意識して天井をニラミ付けて目を開けておく。
 しかし、また眠くなる。その繰り返しで朝を迎える。
 だから隣のベットに患者が来て、様態が悪い人だと身内の人、看護婦さん、先生など出入りが夜中を含め多くなると気持が落ち着いたものだった。
 観察室は患者も人の出入りも激しかった、そのたびに人の生死の姿を見てきたし、回復して出る人の方が少なかったのではなかろうか。
 私は他の人より長い間いたので観察室の天井の節の数や板の枚数等も覚えていたし、部屋の主になる位いたのである。

 この部屋で気にしていた事は、体温のことと化膿することだった、高温が続きそして化膿すれば腕の切断をしなければならない事は言われていたからである。
 そこで体温は9度以上あれば体温計を振って8度5分以下に下げていた。
 下げ過ぎると脇に挟んで上げるなどして、若干の上下はしても8度台になるように調整していたのである。
 回診の時、熱は落ち着いているね、と先生にも言われて、この状態なら最悪(切断)は避けられるかな、と独り言を言って行かれたことも数回はあった。

 私は不自由であっても五体満足に、そしてあの北朝から引き揚げて来たこの身体だ、何としても切り落とすことは先祖にも父母にも、特に母と引き揚げて来たことを思い返しても、必ず切断することなく回復しなけらばならない、その一心であった。
 お花畑を見る時も、これを行けば死ぬのだ、絶対に行くことは出来ないと夜ごと思ったものである。
 しかし本当は体温も9度以上が続いていた。このままだと肝臓はじめ内臓に悪影響を及ぼし死に至る危険性が出てきたのである。
 明日診て最終の判断しよう、と先生が言い続け繰り返していた。
 そのような状態だから観察室から出ることが出来なかった。
 そのため、多くの人を見送ったものだ。

 そのように夜になると目を開けていたので、朝になり母が温かいタオルで顔や手足を拭いてくれて、朝食や注射などひと通りのことが終わると安心して眠ったものである。
 前述のごとく夜は恐ろしくて眠れないので、人が動き出すと安心して眠ったものだった。
 食事する以外はほとんど眠っていた。
 観察室を出ることができれば、ひと山を越えることになると心待ちにしたものだ。
 また、24時間の点滴をしていたので身体を余り動かすことが出来ず苦痛の一つだった。
 看護婦さんは夜中も幾度となく回診して来てくれていた。
 消灯後の時間が長い、起きているので悪い方にばかり考えが走ってしまうのである。
 母も幾度となく顔を覗き込んでは、眠っているね、よかった、と独り言を言ってフトンに入っていた。

 枕元の窓から朝ぼらけの様子になると、もうすぐ夜明けになるのだと安心したものだった。
 今日もまだ生きていたと実感するものであった。
posted by むた秀敏後援会 at 10:36| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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