2011年07月28日

4、一般病棟へ移る

 観察室での暮らしも2か月目に入った。
 熱もかつてのように操作せずとも。8度台の前半に落ちついてきた。
 血液の流れも少しずつ回復したが、リンパ液は依然として不調で腕は大きく腫れたままの状態が続いていた。
 しかしながら自分でも最悪の事態は抜け出したのではと思うようになっていた。

 母は稲刈りなど米の収穫のため、付き添いのおばちゃんに来てもらった。
 窓からの風も少し寒く感じるようになっていた。
 まさに晩秋の季節であった。
 もう、お花畑を歩く夢など全く見なくなって、三度の食事が楽しみだった。
 特に昼と夕食のおかずを当てることも、その一つだった。
 何となく風に乗ってくる香りで判断したが余り当たらなかった。
 そんなことを思う気分になったことが回復の兆しだったといえる。

 それから2週間も過ぎたろうか、院長から明日午後、昼食を済まして一般病棟に移るからと薄らと微笑みをうかべて話してくれた。
 「本当ですか」、心の喜びと涙が出て、先生ありがとうございますと全てを言い切ったかも覚えていない。
 付き添いのおばちゃんも「よかったね、いい方に向かっていることよ、頑張ろうね」と優しく声をかけてくれた。
 やっと明日から一般病棟に移れる、その夜は朝方近くまで眠れなかった。

 家の方には、夕食ごろに電話をしてもらった。
 両親も大変喜んでいたとのことだった。
 二三日して母がやって来て、顔を見るなり涙して「秀敏、本当に頑張ったね、よかったね」と手を強く握りしめてベッドの側に座って立ち上がろうともしなかった。
 「お母さん、ご免ね、もう死なずに済むみたい、本当にご免なさい」と言って母親の方に身を寄せた。
 私はこれまで、ずぅーと両親や家族に迷惑のかけどおしだった、そう思うと今回の事故は天罰だったのではないかと観察室で眠れない日々に思っていたのである。
 まだ母がいる時回診があり院長から「気分はどうだい」と声をかけられ「少し楽になったような気がします」と答えると「そうか、無理しないように」そして母に「先が見えてきたように思います」と言い退室された。

 この部屋は8人部屋で4つのベッドが二列に並んでいた。
 私のベッドは病室の奥の窓際だった。
 このころは病室に部屋頭と言って一番長く入院している人がなっていた。
 例に倣って部屋頭をはじめ、皆に挨拶をしたものであった。
 後には私が部屋頭を務めることになるのだ。

 しかし、病院と会社と労働基準監督署の間ではいろいろと見解の相違、意見の違いなど相当の激論があったことを後に院長から聞くこととなった。
 本当に院長にも会社にも大変迷惑をかけたと思ったものである。
 
posted by むた秀敏後援会 at 07:51| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月27日

結婚25周年に招かれて

 仲人をしたある夫婦の25周年に招かれ、妻と共に参加した。
 恥ずかしい話だが自分達の25周年の時など思いもしなかった。

 出席して、ご健在の奥さんのお母さんに久しぶりにお会いでき嬉しい思いだった。
 そして、何よりもこのような人生の節目の時に、親しい人達と互いに祝いの膳を共にすることは大変良き事だと感心したものである。

 そして、その催しを主人が奥さんだけには一言も言ってなかった、全くのサプライズだったこともビックリした。
 私共への案内状には夫婦の連名だったので尚更である。
 それは夫の妻を思った心からのサプライズだった。

 そして私共にも花束をもらい仲人をしたことへの配慮など気配りにも有難く感謝したものだった。

 あと7年で結婚50周年となるから、その時はと妻に言うと、
    二人とも元気であればね・・。

 
posted by むた秀敏後援会 at 09:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月25日

3、母が丸坊主に

 付き添ってくれた母が2週間位過ぎてからだったと思うが、髪が少しずつ抜け始めた。
 姉が昼間付き添ってくれたので、母は久しぶりに帰宅して風呂に入ってきた。
 すると髪の毛が抜け始めていた。
 私が、お母さんに髪が薄くなったみたいよと言うと、「そう言えば風呂で洗っている時、抜け毛があった、久しぶり洗ったからではないか」と母は言っていた。
 しかし日が経つにつれ抜け毛が多くになり、ついに1本も無くなり丸坊主になってしまった。

 先生に診察してもらい、精神からのストレスが原因と言われ薬で自然と回復していった。
 狭い観察室に2つのベッドとその側に母は寝ていた。
 十分な睡眠も取れず回復も思わしくなく心労が重なりストレスが最高に達したのであった。
 特に初めのうちは、病状も悪く、しかも不安定な日々が続き、そして見舞客も多く、また夜も隣の患者の状況では眠れず朝を迎えることも度々だった。
 私の病状も一進一退を繰り返し、明るい見通しどころか、何時、他の臓器に毒気が廻って死ぬかもしれない状態が続いていたのである。

 見舞客には少しでも元気な様子を見せようと気丈夫に振舞っていたが、客が帰るとぐったりとなり熱を出していた。
 外部での話は必ずしもいい話ではなかったので、見舞客も早めにと思ってのことだった。

 母の頭にも産毛のような髪が生えだしてきて、時が経つにつれ段々と量も増して普通の髪へと戻っていった。
 母には我が儘ばかり言ったのではないかと、これまた反省している。
 自分が痛いので、そのことで母に当たり散らしたのではと今でも悔んでいる。
 母に一番心配を掛けたのは私であったと、つくづく今になって改悛している。
 母が付き添ってくれたから助かったのだと今でも思っている。
posted by むた秀敏後援会 at 07:41| ケガと人生の転機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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