2011年06月02日

26、人力車

 列車が鳥栖駅の6番ホームに滑り込んだ。
 「鳥栖、鳥栖、鳥栖です。長崎本線、久大本線は乗り換えです。」とアナウンスだ。
 母と姉そして私はやっとの思いで古里の土を踏んだ瞬間でもあった。
 「アー、鳥栖にやっと着いた」母は姉と私をそれぞれ強く抱きしめ、「日本に帰ったよ、鳥栖に帰ったよ。」と涙を流し言った。

 駅を出て母が当時の都タクシーの戸を叩いた。
 早朝だったのでまだ開けていない時刻だ、店の人が出てきて母と話をしていた。
 人力車が出てきた。
 すると姉と私を人力車に乗せて母は歩き始めた。
 晩秋の早朝は薄暗い、そして寒かった。
 これまでの朝鮮の寒さよりも暖かい筈なのに、気の緩みからでそう感じたのかと後に思ったものである。
 道沿いの田んぼは稲刈りの跡が多いが、まだ稲刈りの時期であった。
 たわわに実った田んぼで稲刈りの準備をしている人もいた。
 こんなに早くから準備にかかっているのだろう。
 今はすべて機械作業であるが、まだその頃は手作業がほとんどで脱穀のみを足踏み機械でしていたころである。
 取り入れの時期は早朝より夜遅くまで働いて、家族総出での時代であり農繁期はどこの家庭もそれぞれに合った仕事をしたものであった。
 その事が家族の絆をつくっていたものだと思う。

 もう朝も明けてきた。
 母が、もう少しで家に着くよと言ってからも時間が経った。
 姉が「お母さんもうすぐ着くよね」、母が「もうひと登りすると家がある立石だよ。」そう言って人力車を押している。
「あっ、奥さん疲れてあるから、いいですよ」と引き手の人が言う。
 母は少しでも早くと思ったのだろう、押し続けたのだった。

 実家のある立石に着く頃には明るくなり、人の顔もはっきり見えるようになっていた。
 その頃の県道は路面も悪く大変であった、今からは想像もつかない位の道だった。
 舗装など勿論なく、砂利を入れたもので雨の日などは裸足で歩いたものだった、そんな泥道を後々通学するのである。

 母に声をかける人がいる、「お早うございます。牟田さんじゃろう。」田んぼに向う村の人である。
 「帰ってきんしゃった。あぁよかった。皆で心配しとったよ、本当によかった。お父さんは早う帰ってきとんしゃったよ。皆で待っとんしゃっけ、早う行きんしゃい。」と稲刈りがまを持った人が話しかけてくれた。
 母はありがとうございますと言ってまた歩き出した。
 山の方に向かい坂道を登っていく。
 キキーと自転車のブレーキの音、出勤の人たちとすれ違う。
 「お早うございます。末子さんじゃろう。」と母の名前を呼ぶ人。
 母が、はい、と言うこと以外言葉にならない。
 「元気でよかった。村の全部が心配しとったよ。」と母に声をかけてくれた。
 母は頭を下げるので精いっぱいだった、涙で声にならない。
 目頭をタオルで押さえ、また歩き始めた。

 いよいよ坂道が急になる、少しづつ休みながら歩く。
 もうすぐだよ、母は自分に言い聞かせるように言った。
 ちょうど通学、通勤の時間そして稲刈りに行く人達に会うので母はその都度二言三言話していたので時間が過ぎた。


posted by むた秀敏後援会 at 08:31| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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