2011年05月19日

22、大きな船(米国の軍用運搬船)

 私達は漁船で帰還船へ向けて出航した。
 朝鮮の陸地がだんだんと遠くなっていく、いよいよ日本へ向う、そして日本に帰ることが現実のものとなった。
 本当に長い道程であったし、苦しい帰り道であった。
 母と姉も遠くなる朝鮮の港や陸地を眺めていた。
 そして目が潤んでいた。

 船が止まった、漁船からキャッチャーボートに乗り移り帰還船へ向った。
 いよいよ大きい船に乗り移った、私は水兵の肩車で船に移った。
 船は大きく、先に乗った人々が大勢いた。
 私達の後からも帰還者が続々と乗り込んできた、どれ程の人かわからないが大勢の人達であることには違いない。

 早速弁当が配られた、ご飯の缶詰と魚の煮物だった。
 ご飯をお腹いっぱい食べた、するとお腹が痛くなった、食べ過ぎたのである。
 いつものようにニンニクをと母が用意していたら、隣の人から正露丸をもらった。

 この船はアメリカ船で運航はすべて米国の船員であった。
 引き揚げ者の世話をする日本人も乗船していて、何の不自由もなく船上の生活になった。
 2、3日の航海だそうで、皆朝鮮の暮らしの話やこれから先の生活などの話が多かったそうだ。

 姉と私は甲板に上がるとビックリした、広い広いとても大きな広場のようで、走ったり他の子供たちと遊びまわった。
 船の中にいる子供達は、甲板で楽しく夕暮れ近くまで遊んでいたことを覚えている。
 私はすぐにアメリカの船長とも仲良くなった。
船員さんも良くしてくれ、私達と甲板で遊んでくれた。

明日は佐世保に入港するという前夜に演芸会があった。
佐世保港の明かりを見ながらの催しであった。
私も曲名は覚えていないが歌を歌ったことは記憶にある。
楽しいお別れ会だった。


posted by むた秀敏後援会 at 06:17| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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