2011年05月28日

はじめての二人旅(2)

 結婚して40年を超えるが二人での旅は初めてだった。
 これから二人旅を続けようと、そのスタートを鹿児島にした。
 特別の意味はない、2泊3日であり2、3箇所は見ようと思っていた。
 だがどうしてもとは夜景の城山である。
 昼間は数回登っていたが是非夜景をと行ったが、錦江湾がはっきりせずもう一つイメージとは違ったがそれなりに素晴らしかった。

 帰り道に西郷隆盛終焉の地を案内してくれた。
 観光バスやタクシーも車内で説明してくれるが降りてみると、
下臣の別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と言い介錯の太刀が振り下ろされたとある。
 また山縣有朋が「翁はまことに天下の豪傑であった、残念なのは翁をここまで追い込んだ時の流れだった」とある。

 今の時の流れはどうだろうか? と思っていると

 「何しているの」との声に現実へ・・・
 宿へと向った。
posted by むた秀敏後援会 at 16:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月27日

はじめての二人旅(1)

 九州新幹線新鳥栖駅のホームに初めて立った。

 工事中にもホームに行くことはなかったので、真新しいホームに立って感慨無量のものがあった。
 新鳥栖駅設置のことなど書いてきたが、実際に見ると長い間いろいろな取り組みがこのような形になったことを嬉しく思った。
 本市にとって100年に一度のプロゼクトと言われるものに携わることが出来たことは望外の喜びである。
 ホームに立って、改めてそう思ったものである。
 予定時刻にピタリとホームに着いたその瞬間、涙が出てきた。

 乗車すると車内の雰囲気もよく、すぐに筑後川の鉄橋を渡る。
「さくら」だったので次は熊本である。
 昔、夜行列車で行ったころの事を思い浮かべていた。
 汽笛の音、線路と蒸気の音、そして石炭の煙が目に沁みたことなど懐かしく思い出していた。
 まもなく鹿児島中央駅到着のアナウンスがあった。

 近くなった、速くなった。

 
posted by むた秀敏後援会 at 06:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

24、やっぱりアメリカへ?

 甲板の演芸会も終わり、皆楽しい時間を過ごし明日は佐世保港に上陸し、それぞれ帰郷することを楽しく語り合っていた。
 住所を書いて交換するなど思い思いに過ごした。
 いよいよ朝がやって来た。

 朝食をしていると今日の上陸は出来ないと話があり、佐世保港に渦が巻いて船の入港が出来ないとのことだ。
 眼下に港が見えるのに何故入港できないのかと、口々に言っているが船長からの話がなかなか無い。
 皆、口々に「おかしい、アメリカに連行されるのだろう」「やっぱりアメリカに向うんだ」
などと言っていると母が教えてくれた。

 船は鹿児島を回って太平洋へ、それから北上してアメリカへ行くそうでと、ガックリと肩を落とし、日本の船員に話をしても内容に要領を得ないので一層不安が募り、演芸会など楽しい催しをしていたので余計に心が沈んでしまった。
 口数も食欲も減り、何だか重苦しい空気に包まれた一日だった。

 翌朝、朝食が済んで全員甲板に集められた。
 そして船長からの言葉があった。
 「この船は、佐世保港には停泊船が多く、また周辺の海流が悪く入港を諦めた。鹿児島から瀬戸内海を通り広島へ向う。」
 皆、立ち上がって拍手をした。
 「日本に上陸するんだ。よかった、よかった」と喜び合っていた。
 私も姉も大喜びだったそうである。

 予定通り船は広島県の大竹港に接岸した。
 また皆の拍手が沸いた。
 それぞれに荷物を持ってタラップを降りた、その時であるアメリカの水兵がDDTを頭から降りかけた。
 ダニやノミ、シラミが付いているので頭から服から真っ白にかけられた。
 この水兵を見た瞬間に「やっぱりアメリカに着いたのだ、騙された」と思ったのである。
 しかし、その誤解は直ぐに解けた。
 日本人が収容施設に案内してくれて、夜食を食べそこでその夜を過ごした。
 本当に日本に着いたのだと心から思った。

 次の日、母が帰還の手続きのため忙しく動いていたので、姉と二人で母の帰りを待っていた。
 夕方近くになって母がこれから帰るよ、次の汽車に乗って帰るからと大竹駅へと向かい、下関行きの列車に乗った。
 座席に座ることは出来ず、通路に座って眠った。

posted by むた秀敏後援会 at 09:29| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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