2011年04月14日

12、妹の誕生と死

 同郷の家にいて安心したのだろか、それまでなかった母の陣痛がきて、女の子が生まれた。
 栄養不足で小さい子だった。
 泣き声にも力がなく、その上母の母乳も少なく、少しの母乳を吸っていた。
 母は赤ちゃんに「ゆきこ」と名前を付けたよと姉と私に言った。
 その理由など知る由もない。

 もう11月末の朝鮮は本当に寒い。
 部屋の中は温かいが外は凍える寒さだ。
 赤ちゃんの容態がだんだんと悪くなっていく。
 泣き声も小さくなってくる。
 乳の出が悪く、おもゆを薄く作ってもらい飲ませたりしたが、それも飲めなくなり昭和20年12月27日に亡くなった。
(このことは仏壇の位牌を見てわかった)

 その夜は、母と姉そして私と代わるがわるに抱いていたとのことだった。
 翌日、井上のおじさんとおばさんと母、姉、私とで近くの小高い丘に行き、日本の方向に頭を向けて埋葬したとのことであった。
 悲しい一日であった。

 〜私は妹のことを余り記憶になかったが、近年になってお寺さんの年忌表に「由紀子 50回忌」と載っていたので正確に妹の名前を始めて知った。 そして姉と2人でお経をあげてもらったのである。妹も無念だったと思う。 〜

 母の体調が良くならず、寝床に伏せる日々が続いた。
 病名は覚えていないが法定伝染病に罹ったのである。
 井上さんがうつるといけないからと姉と私を別の部屋にと言ってくれたそうだが、母が子供たちは一緒に、万一の場合は3人で死にます。と井上さんに話したと後で聞いた。
 不思議なもんで、私達に病気がうつることなく母も回復したのであった。

 しかし、この間ソ連軍が入ってきて、私を連れ出そうとしたとか、母と妹が泣きじゃくり懇願して返してくれたとか、危機一髪の事が多々あったとのことで、姉はこれらの事は今でも一切話さない。
 嫌な思い出だったのだと思うのである。

posted by むた秀敏後援会 at 08:00| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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