2011年04月30日

市民ホールに鯉のぼり

 今年も端午の季節になった。
 園児による「鯉のぼり」が市民ホールに掲げられている。
 この企画は私が現職の時の発案で保育園の協力のもとスタートした。

 季節折々に古来催事の飾り付けである。
 年毎にいろいろ考え工夫して飾り付けも良いものになっている。
 先生方の努力の成果であろう。

 いつまで続くかと思っていたがもう10年以上になる。
 古来、継続は力なりとの言葉通り、今では市の風物詩の一つになっている。
 いつまでも続けてほしい。

 園と園児が協力して作った作品であるから、できれば写真集でも考えてもらえたらとも思う。
 
posted by むた秀敏後援会 at 09:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月29日

おたがいさま

 最近“おたがいさま”という言葉をあまり聞かなくなったように思う。
 都会のみのことでない、良い時も悪い時もおたがいさまで近所づきあいをしてきた。

 これは大きく言えば、我が国全体が一つの家族、家族的国家であったはずだが、その環境は少しづつ変化し、今日では個人主義、利己主義社会へと変化してきていると思える。

 それが今回の大地震と大津波そして原発事故で意識が大きく変わった。
 がんばれ日本!
 日本中の人がそれぞれの立場で立ち上がり、世界の国々からも支援してもらっている。
 日本人の心を一つにしてくれたことは意義深い。

 我々が失いかけた“おたがいさま”の気持ちを取り戻させてくれたことも大変大きいものがある。
 我々は常に“おたがいさま”の気持ちで生きて行こうではないか。

 “おたがいさま”の社会だ。 日本は。
posted by むた秀敏後援会 at 08:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月28日

16、死の恐怖

 その明かりが大きくなってきた。
 「お前たちは、誰だ」
 代表が「日本へ帰る者達です」と答えると、朝鮮軍の人がソ連軍の人に通訳くした。
 その時、ソ連軍が銃口を私達の方に向け、いまから連れて行けと朝鮮軍人に言ったそうである。
 私たちは山道を下りて町の方へ歩き、駅の奥にある機関区の中の広場に連れて行かれたそうである。

 その広場には他の隊の人が既に並んで座っていた。
 それに続いて私達も並んで座った。
 私たちは母が姉と私を両脇に抱き込むように座った。
 すると暫くして、朝鮮兵とソ連兵がカンテラを翳して入ってきた。
 朝鮮兵が「これから若い女を殺す」と言ってカンテラを照らしながら歩き始めた。
 すると、ギャーッの声とともにドンと音がする、悲鳴とともに泣き声もする、それが続くのである。
 死の恐怖の中である。
 銃剣で胸を刺し、その後に銃を撃ったそうだ。

 母は30代前半だったので、日本タオルの糸を抄いて頭にかけ、毛布を頭からかぶり姉と私を抱きしめていた。
 寒く暗い中をコツ、コツと足音が近づいてくる。
 母の手に力が入った、足音が消える、立ち止まったのだ。
 カンテラの光で母を照らす、そして二言三言話して歩き出した。
 すると近くで銃声と泣き声が続く。

 「次に年寄りの女を殺す」と言って、同じように歩き始めた。
 今度母は頭の白糸を払って、それを隠し毛布を被って前回と同様に姉と私を抱きしめていた。
 今度はカンテラに照らされたが、コツ、コツ、コツと通り過ぎた。
 また母の手に力が入った、きっと、よかったね、の合図だったのであろう。

 怖い時間が長く長く感じられた。
 きっと家族や母親だったのかも知れない亡くなった人々がそのままにされて泣き崩れていた。

 そんな重苦しい時間が過ぎ、朝の明かりが薄っすらとしたとたん、皆が一斉に逃げ、貨車や列車の下をくぐり抜け、ありったけの力を振り絞って走り抜けた。
 もう隊の人たちもバラバラになった。
 近くにあった食堂に逃げ込んだ。

 先に来ていた家族が「機関区から逃げてきたのですか」と母に声をかけた。
 その家族はお父さん、お母さんと3人の子供だった。
 しかし私の隊とは違っていた、その家族は私たちより早く店を出て行った。
 久しぶりにご飯の食事をして私はすぐに眠りについたそうだ。

 ひと休みして3人で歩いていると、「牟田さん、探しているよ」と隊の人が駆け寄ってくれた。
 母が「もう隊は無くなったのではと思っていました」と話したところ、「少なくなっているようだが、一緒に帰ろう」と皆の待つ所に行った。
 「まあ、無事でよかったね。やっぱり一緒に日本へ帰りましょう。」と温かい言葉に励まされ、あの怖かったことも忘れ歩き出した。

 誰とはなく、古里を想う歌や互いに力づける歌など口ずさんで、また山へと向った。
 先程の恐怖の時間など無かったようにして歩き続けるのであった。
 大きな死線の一つを越えた朝だった。

posted by むた秀敏後援会 at 07:50| 死闘の日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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